慶長10年(1605年)4月16日、家康は将軍職を辞するとともに朝廷に三男・徳川秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、淀殿がこれを拒絶する。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで、事は収まった。
慶長12年(1607年)には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた(大御所政治と呼ばれる)。
慶長16年(1611年)、二条城にて秀頼と会見したいと要望した。主筋を自任する豊臣氏はこれを拒絶する方向でいたが、将軍・秀忠は秀頼の義父である関係からあくまで「義父への挨拶」という名目で上洛を要請し、加藤清正等の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に「家康が日本の武家の棟梁である事」を示したとするのが一般的な見解であるが、豊臣氏の権威や脅威が無視できないものであることを改めて家康が実感することになったとの見解もある。
最晩年を迎えていた家康にとって、豊臣氏は最大の脅威であり続けた。一大名の位置に転落したとは言え、なお特別の地位を保持しており、実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名はほとんど豊臣恩顧の大名であった。また、家康の将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時には、秀頼は秀忠(内大臣)を上回る右大臣に昇進している。
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さらに徳川氏は内部に問題を抱えていた。将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもある伊達政宗は、未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。また将軍家でも秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった。もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、幕府は一瞬にして崩壊してしまう可能性があった。家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問している。
家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているようにも見せかけていた。諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。また、(秀吉の遺言を受け)孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備え、多くの浪人を雇い入れていたが、その多くは関ヶ原の戦いの敗残兵で家康に恨みを持つ者たちであった。
そのような中、慶長16年(1611年)に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった(あまりにも豊臣恩顧の大名の死が相次いだため、家康による毒殺説もある)。
そして慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけとして、家康は豊臣氏を完全に屈服させることを決意し、それを拒んだ場合は滅亡させるべく策動を開始した。